2008年5月26日月曜日

自己紹介 小宮光江の巻


映画情報昭和32年1月■小宮光江

昭和37年1/20午前9時、新宿区下落合1丁目の会社員青木方で、お手伝いの女性(21)が掃除中、奥の洋間がガス臭いのに気付き、ベッドの中で間借り人の東映女優、小宮光江(26)が自殺しているのが発見された。小宮はガスストーブに点火せず、ガス栓を開けており、「ケーリーごめんね、ミー子もうだめ」とメモに鉛筆書きの遺書を残していた。遺書はその後の文章は判別できなかった。小宮は大宮東中時代からモダンバレエを始め、目白の川村学園を経て、昭和29年にミス大宮に、東宝芸能学校に1年間通学し、昭和30年夏の鎌倉カーニバルで初代江ノ島海の女王となり、10月にスカウトされて東映に入社していた。自殺の前日の昭和37年1/19夜には貿易商の青年ケーリー・ヤマモトと食事をしており、1/20午前1時15分には、かねてから交際していた駒沢の無私寮の東映選手張本勲に電話、「相談したい事がある」と張本を呼び出したが、「遅いから」と断られていた。小宮は派手な交際で知られたが、小宮の死について、ケーリーは「過失死じゃないか」と語った。小宮は母の影響で創価学会に入信していた。

遺作「恋と太陽とギャング」は死後公開された。

0 件のコメント: